第一章
Snow white in fairyland
・参加する
・お話を読む

第二章
the Frog Prince in fairyland
・参加する
・お話を書く
・お話を読む

童話の国のスノー・ホワイト

Snow White

in fairyland

 その狩人はきびしく己をしつけていた。毎朝日の出とともに起き上がり、顔を洗って髪と髭を整え、服は髪を結う革紐さえも己がなめしたものだけを身につけて、朝食の前には恵みへ祈りを捧げた。晴れの日は丘へ、曇りの日は森へ、雪の降る日は山へ狩りへ行き、日曜は狩りをしない約束を己に課していた。男に関わるものは、誰もが彼を清廉潔白で敬虔な人物だと思ったに違いない。けれど実のところ、その心のなかにある信仰心はあまりにも独特と言わざるを得ないものであった。彼はただ、その時々で目の前にあることを使命と信じて疑わないようにして、己と、あるじと、神との間へ優劣をつける事を徹底的に避けるために、己の為にもあるじの為にも決して祈りはしなかった。彼の信仰は規律そのものであり、信仰とは、すなわち決して裏切る事のないものである。その狩人は、名をグスタフといった。 それはよく晴れた日曜の朝だった。勤めている城のほど近くの深い川で、グスタフは血のけがれた匂いの染み付いた躰を洗い流していた。いつも芯まで凍えるような心地にならねば汚れが落ちた気がしなかったので、連れ歩いている豚がほとりで眠りこけてしまうまでじっと流れのなかで佇んだ。そのうち豚がくしゃみをすると、グスタフはようやく我に返り川岸へと引き上げる。豚には自分の着ていた上着をかけてやり、自分はぶるりと身を震わせながら石鹸を手にしはじめた。衣服に、たべものに、手の届く範囲の身の回りのことはほとんど自分が狩ったもので賄っているグスタフであったが、獣脂と石灰で作る石鹸を日曜だけは使う気になれなかった。だから身の程もわきまえず、貴族が使うような高価な植物石鹸を泡立てて、青くみずみずしい香りとともにもう一度川に入っていったのだった。 濯ぎの沐浴が終わり、目を開いた時。グスタフはいつも一緒にいる豚のペックが、その場いない事に気づいた。「……ペック?」 冷えた身体に走る嫌な予感はいつにもまして鮮明だった。自分が丸腰の間ペックが野生動物に襲われることのないよう、沐浴をする川は城からかなり近いところにしていたのだ。万が一近くを通りかかったものが貴族、いや、王族だったなら……所詮畜生に過ぎないペックが礼儀作法など知るよしもない。グスタフは急いで下履きを身につける。後ろの方で、ぴいと豚の鳴き声がした。

一歩城から出れば、民は挙って私を高価な芸術品のようにして扱う。それは私が小さな頃からずっと変わらず、今になっても続いている私にとっての日常茶飯時。 彼らに邪な思いがなく、純粋に、美しく高潔な精神を抱く母から生まれた姫君が私であるからこそ、故に私をそのようにして扱っているのだと、理解はしている。私の母親──この国の女王には及ばないことも、同じくらいによく分かっているけれど、それでも彼らは私のことを敬い、そうして大層大切に扱ってくれる。そのことを咎める権利など私にあるはずも無く、勿論、悪い心地なんてしない。 ──けれど、それも彼らが平民であるから成り立つ話。彼らが国政に深く関わるような者でないからこそ、そういった純粋無垢な想いを私に対して注ぐことができる。しかし私は、まだ十と数年ほどしか生きていないけれど、そんな潔白な想いを装い、結局は己と己の国の為にと、私を利用するような権力者は飽きてしまうほどに多く存在することを見知ってしまっていた。 根底にある想いは大きく違えども、形ばかりはひどく同じ。城下にて日々を生き生きと送る人々から向けられた感情も、時折には丁寧に包み隠した利己的な想いなのではないかと勘繰ってしまう程度には、どうやら私、毒されているみたい。 私がどれだけそんな風に思おうが、それを民の前に、表に出しはしないから彼らはそれに気付くことなどはない。母の尊厳を損なわないよう、貴き務めを果たすべく、謙虚で高潔な姫君であらねばならない。そう己を戒め、常々柔かに笑みを振り撒く日々は、些か虚しいものなのかもしれないけれど。──だからこそ、私時々このようにして城を抜け、町には行かず、すぐ側の自然に恵まれた河のほとりをひとりで歩く。人通りは少なく、水のせせらぎと小鳥の囀り、木々の葉が風に揺らされる音ばかりが耳に入り心地の良いこの場所は、心を浄化するに相応しい、秘密のお気に入りの散歩道といったところだった。 今日だってそう、口先だけの、どこかの国の王子を追い返し、そんな日は町の人々の好意さえも須く勘繰ってしまうので、出て行ってもただただ心身に疲労を蓄えるばかりだから、そういう日は一人で歩いてしまおう。普段の道、見知っているし、城からは近い。心配することは何もなく、ただ耳一杯に入り込む心地良い音色の数々に心を洗い流して歩いている。 ──そんな刹那、不意に視界の先の叢が揺れたかとを思えば、聴き慣れない鳴き声がひとつ。好奇心が勝り駆け寄って、汚してしまわないようドレスの裾を僅かながら持ってしゃがみ込めば、その揺れた叢を暫く覗き込んでみる。……すると、どうだろう。少しの間を置いて、そこから一匹の子豚が顔を出した。少々驚いて、私は小さく声を上げる。
「わわ……っ、貴方は」
人の言葉などは通じるはずもないが、しかし気付けばそう問いかけていた。それに豚はただひとつ、ぴい、と鳴いて返す。暫くの間見つめあっていれば、ふと近くから足音のようなものが耳に入ったような気がして、音の方に視線を注ぎ。

グスタフは豚のペックの鳴き声のほうへ振り返り、低い叢を足でかき分けて進んだ。樹皮が苔むした少し低いオークの木へそっと手を触れ身を乗り出すと、葉がさざめいて木洩れ日が揺れる。ペックの目の前で座り込む少女に目を奪われて――すぐに、それが我が国の王女、コレット姫である事がわかった。ドレスの裾をつまんでふわりとしゃがみ込む姿は、実にそうあるべきと定められたようにグスタフに秩序を思わせた。例えるならば、寸分の狂いもない三角形を見て充足を覚える人間の、なにか単純で本質的なところへ訴えかけるような秩序だ。まるい後頭部とつやつやした髪から、華奢な肩、ふわりと広がるスカートへ流れるように広がっていくシルエット。まさか髪の一本一本やスカートの広がりに正解などあろうはずもないのに、コレット姫をまとうものすべてが彼女を肯定し、そこに調和を存在させているかのようであった。目を奪われるという表現はまさしくこういう事を言うのだろう。もしも白黒の世界に一つだけ鮮やかな赤が、青が、黄があったなら。目にしたそれに好意や悪意を抱くかどうかをこちらが決めてしまうより前に、反射に近い形で目を向けざるを得なくなる。妖しい魔力のたぐいなどなくても、たったひと目で誰かへの感情を決めたりするほど浅はかだったり多情ではないと己を躾けているグスタフでさえ、自分で納得がいくのだ。きっと、街で赤ん坊をみれば思わず目を惹かれ顔がほころぶのと同じこと。赤ん坊に微笑まれたら、誰だってうれしいのだ。なかれたら、誰だってつらいのだ。そんなふうにして、ただただその姫君は可憐そのものであり、またこれほどに美しいものがこの世にあったと言うならば、目に焼き付けておかねば損をするような気もして、グスタフは姫君から目が離せなくなっていたのだった。(コレット姫。……なんと美しくお育ちになられたのだろう。顔を、もっと近くで見てみたい)ペックの事を忘れたわけではなかったけれど、その逡巡は一瞬の事であったためにグスタフ本人にも自覚がなかった。木に隠れて乗り出そうとする上半身と、音を立てずけれど体幹を崩すまいとする下半身は、グスタフのなかの神経をあべこべにさせ、右足はよろめいてさくりと草の音を立てる、姫の意識がこちらへ向いたのがわかった時、はっと状況を思い返したように、グスタフは咄嗟に木の陰に隠れた。「……ひ、姫。非礼をお詫びいたします…!」姫君に背を向け、木に背をつけて、ばつの悪さに耳を赤らめ、堅くこわばった声を絞り出した。「本来ならば出ていってご挨拶をしたいのですが、あいにく私は水浴びをしていたところで、とても姫の目の前に出ていけるような格好ではありません。お許しください、それはこのグスタフめの豚にございます」姫は、きっと男の裸など見たことはないに違いない。目をそらしただろうか、悲鳴を上げただろうか。グスタフの見えないところで、豚が姫のドレスの裾に興味を持ちはじめたようだった。

「愛嬌のあるお顔……貴方、何処かから迷い込んだの?」
 飛び出してきたその豚は、淡い桃色にも似た特徴的な鼻をひくひくと動かしながら、丸くつぶらな瞳でただただ私を見ている。それは犬猫とはまた違った愛らしさとでも言えるような、そんな心地だった。それこそ、私は豚の存在こそ知っていながら、それを斯様に間近で見たことなんて無かったからこそ、新鮮で、新たな心情と僅かな癒しとを齎してくれた。その一挙一動を眺めるたびに、不思議と口角が上がってしまうのを感じる。 ──とはいえ、豚が人語を解するはずもなく、何処から来たのかを問うたところで同じように鼻を動かし、僅かに顔を傾けるばかり。付近を散歩することは多々あれど、しかしこうして動物に遭遇することは稀である。まして豚となれば、それこそ今回が初めてた。普段見ないそれが、果たしてどういった経緯で目の前に現れたのか気になる気持ちが強く、そう声をかけるのをやめられずにいた。 直後、豚の現れた叢のそのさらに奥、一本の木の陰からまた物音がした。この豚はまだ小さく見えるから、もしかしたら親が探しにきたのかもしれない。──そう思って、物音へ視線を向けると、しかしそこには親豚ではなく狩人がひとり──僅かに水に濡れたような肌を曝け出しており、そんな彼と一瞬ながら視線が合ったように思えば、けれど次の瞬間彼は木陰に身を隠していた。体格は良く、僅かに肩が垣間見えるように思えた。
「……ぁ、いえ、非礼なんてとんでもございません。寧ろ、……。水浴びを、されていたのでしょう? であれば、それを邪魔したのは私の方でありましょうから、貴方はどうか気に病むことのないよう……」
 狩人グスタフは厳格そうな雰囲気なのに、強張った声色に緊張の様子が滲み出ていて、そういった素朴な人間らしさに少しばかり安心感を感じたように思う。己を律し、雑念を抱かない狩人……貴方が喋らずいたのなら、そんな印象を私、ずっと抱いたままだっただろうから。彼の話で、幾らか現状が見えてきた。彼がはだけているのは水浴びをしていたからということ、この小さな豚は彼の連れている動物であること。城に勤め、屡々食事の材料を調達することのある彼は幼い頃の私をも見知っている。少なくとも私にとっても、物心のついた頃から彼は城にいて、そうしてまた、変わらず狩人だった。貴族の方は趣味にされていることも多いとは聞くけれど、私は狩猟に関する知識は殆ど持ち合わせていない。だから彼が普段、どのようにしてその生業を営んでいるのか詳しくこそ知らないものの、彼がとってきたという食材を丹念に拵えた料理の数々は、嫌いなものを探すのが難しいほどに私の口に合っていて、食べるたびに何処か懐かしさのようなものを感じることさえある。
「ま、貴方の豚さんでしたのね……! とても可愛らしい愛玩動物を連れていらっしゃいますこと。……あら、貴方、これが気になるの? 」
 彼が私をよく知るよう、私もまた彼のことをよく知っているつもりではいたけれど、あのような強面な雰囲気の狩人が、斯様にくりくりとした愛らしい動物を連れていることがある、というのはこれまで見たことも聞いたこともない。まだ小さく見えることもあり、連れるようになったのは最近なのかしら、なんて思っていれば、彼の豚がドレスの裾に施されたフリルに興味を抱いたようで、その可愛らしい色合いをした鼻を近づけている。
「──グスタフ、ご覧になって? この子、私の装いが面白くって興味が尽きないみたいですの。鼻がよく動いて、可愛らしいですわね」
 そう木陰の彼に声をかければ、裾を摘んでいた指先を僅かに動かしてフリルを揺らし、それに釣られて動く豚の様子に目を細め、口角が自然と上がるような感じがして。

帰ってきた姫の言葉の中に非難や軽蔑の念がなかった事にひとまず安堵しつつも、豚と戯れる姫の様子を眺めるにはやはり少しばつの悪い状況だった。肩越しにふりむいてそうっと覗いてはまた目をそらし、ふっと口元を緩めながらグスタフは地に目を向けて項垂れる。「……お気に召しましたなら何より……と言いたいところですが」低い声は地を這うように、つめたくあなたの耳に轟くだろう。小指ほどの細さの蛇が足元でしゅるりと動き、草の中へ消えていった。「畏れながら申し上げます。それは愛玩動物ではありません」その場に屈み、顔を少し出しながら顎で豚に戻れと指示を出す。フリルと踊っていた豚は少しあたりをきょろきょろした後に、短い足でグスタフのもとへ駆けていった。「この豚の母親を殺したのは私であり、この豚も大きくなれば、やはり同じように殺されます。そこを分け隔てて考える事は私の狩人としての教義に反します。……必要以上の思い入れをなさる事のありませんように」彼は悪意を持って無垢な姫に現実を突きつけたいわけでもなければ、主義主張に自己表現を重ねているつもりでもなかった。ただ嘘偽りなくあるがままを話し、余計な夢は見せない。それが彼にとっての誠実さだったというだけのことだ。親を殺したから親代わりになるなどというのは、もっと残酷で都合の良い自己満足とすら思っていた。それで姫に軽蔑されるのならば仕方がない。はじめからこの手は血で汚れているのだから。「良い一日を」グスタフはそう言うと、姫に背を向けたまま遠ざかってゆくだろう。豚もまた、無邪気にグスタフの足にまとわりつきながらついて歩いた。

彼の声は低く、空気を震わすようにして私の耳へと伝わる。茂みから顔ばかりを出した彼が顎で呼び戻せば、私のすぐ足下で、裾のフリルに興味を示して居たこの可愛らしい子豚は少しの間の後に、とっとっと愛らしい小走りで声の主のもとへと駆け寄っていった。所作の全てが、なかなかどうして可愛らしい。そう思うのも束の間に、彼が告げたのは子豚が「愛玩動物」ではないという事実。あんなにも愛くるしいものだから、生真面目そうな彼であってもやはりそれに魅せられ、愛でるべくして飼っているものだと思って触れていた私には、その意味するところを咄嗟に理解することはかなわなかった。代わりに「ええ……?」と、些か間の抜けた声を溢した私に、彼は続けて語りかける。『豚の母を殺したのは自分』『この子豚もいずれは殺すことになる』という彼の言い草は、尚のこと私の思考を置き去りにして放たれたものだった。殺すために彼は豚を育てているのかしら。であれば一体、どのような為に……? 訊きたくも、しかし彼の堅牢な雰囲気に少々怖気付いたようなところもあり、結局ただ「そう……なのですね」としか返すことができなかった。やがて背を向け立ち去る彼を目にしても、ほんの僅かに手を伸ばすばかりで、何を言うでもなく、その姿形が遠くなるにつれて、どうしようもなくただドレスの裾を僅かながらカーツィを向ける。終始呆然とせざるを得ず、ただただ呆気に取られる私は、きっと彼から見れば無知で、夢みがちで、ただただ汚れのない布なのだろうと、ほんの少しながらも感じた。それまでに、私と彼の見る世界の色や形は、どうにも違うのかもしれない。

第一幕